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2019-03-11

忘れてはいけない8年前のあの日を

2011年(平成23年)3月11日14時46分ごろ、私は埼玉県内の「作業の現場」にいました。棚のサイズを測っているときにドン!と大きな地響きを感じ、「最近多いいね」と言った瞬間、これまでに感じたことがない大きな揺れが発生し、私はすぐに窓を開け、最後はスリッパのまま外に飛び出してしまいました。目の前の電信柱と電線が恐ろしほど大きく揺れていました。

高校生の娘が今日は早く帰宅しているはず。私はすぐに携帯電話で連絡をしました。”そのときは”まだつながりました。テレビをつけると、日本列島の太平洋沖で何か大変なことになっている。早く逃げて!という思いと自分の家族が心配でなりませんでした。

またすぐ自宅に電話をするともうつながりません。そのお住まいの方が心配して「早く帰った方がいい」と言って下さいました。この日に限ってちょうど車で行っていたので、すぐに帰宅することが出来ました。娘は当時飼っていた犬を抱きしめながら恐怖に震えて泣いていました。

 

2011年(平成23年)3月11日14時46分ごろに、三陸沖の太平洋を震源とした東北地方太平洋沖地震が発生し、この地震による被害を『東日本大震災』と呼ばれています。

1)帰宅困難になった息子

その日、都内にいた長男と途切れ途切れになりながら連絡を取っていました。「電車が動かない。ホテルも取れない。どこへ行けばいいのかもわからない。」と言います。長男は当時20歳だったので、どうにか自分の力で無事に帰って来てくれるはず!と信じるしかありませんでした。しかし、携帯電話がつながらないことは不安をかりたてるばかり。つまり、長男は帰宅困難者になってしまったのです。

 

夜、一先ず落ちついた状態の中でお風呂に入ろうとしたらガスがストップしてしまいました。隣のお宅は大丈夫とのことで、当時は何がどうしてそうなっていたのかさえわからず・・。やむを得ず近所に住む姉の家へ行っていたところ、やっと長男と連絡が取れ、「電車が動いて○○まで来た。これ以上は動かないらしい」とのこと。安心して車で迎えに行きましたが、渋滞でなかなか動きません。その横を多くの人が歩いています。靴を持っている人もいます。駅に近付くにつれ歩く人の数が増えます。30分で行けるところ、2時間かかってやっと辿り着きました。ファミリーレストランの対応で中に入れてもらったそうですが、「それもたった今」だったそうで。2時間近く外で待っていたそうです。

 

帰りの途中でコンビニに入ると冷蔵棚には何もありません。カップ麺は売っていても「お湯はない」と言われました。一先ず今食べられるモノを買い、飲み物を買い、無事に帰宅することが出来ました。その車の中で「なぜ帰らせたのか?帰るほうが危険じゃないか!?」と腹立たしく思いましたが、息子が「居場所もないだろうし、みんな帰りたいだろ」と。気持ちはわかりますが、家族からすれば安全な場所で止まっていて欲しいと思いましたね。

いま都心部では、大きな災害時は「帰らない。帰さない。」ことを呼びかけています。当時を振り返り、家族を思えば、本当にそう思います。

 

長男も不安で辛い思いをしましたが、タクシーを待つ行列の長さや、まだファミリーレストランにいた方を思えば、長男は救われた方だったのだと思います。

2)どうしても気になる私がいた

その後から、どうしても東北が心配でならなかった私がいました。

「何が出来るのか?」

そして一番にやったことは、あるメンバーしか入れないSNSで「私のこの場所を使っていいから、無事な方はコメント下さい!あの人は無事だと聞いた方はココに一報を下さい!」と、安否の呼びかけでした。次々と「長柴さんのところに返事をしてください」とのシェアが広がり、各々が無事の確認が出来たようでした。

 

毎日震災のニュースを見て、泣きながら手を合わせる気持ちだったのは私だけではないはずです。多くの人々が思ったように、じっと出来ない私がいました。「すぐに何か手伝いたい。」 しかし、こんな思いになったのは実ははじめてだったので、何を調べれば良いかもわからず、何をすればよいのかもわからない。被災地の場所さえわからない。しかも、「受験を控える息子をおいてそれはダメだ。」と自分に言い聞かせながら、寄附をしたり、物資協力をしたり、ボランティア募集を調べたりしていました。

 

埼玉県でも計画停電と称しながら計画通りではない停電を何度も経験し、買出しに行っても商品がなく、コンビニでさえ昼に閉店しまう買い溜め騒動が起きたりと、色々不自由なことがあり、大阪の友人が「物資送るで~」って心配してくれたのですが、「こっちなんて被害のうちに入らないから、東北へ送って!」と言うと、「東北へは運んでくれないんだ。運べないらしいんだよ」との返事でした。そう。すぐには物資を送ることが出来ませんした。それももどかしく思っていました。

 

私がはじめて東北へ行ったのは半年後の9月。仙台で仕事でした。駅からブルーシートが張られた屋根がたくさん見えます。駅近くのビルも損傷しています。このまま被災地へ行こうと思っても交通手段さえわからない。気持ちはあっても無知過ぎる自分が本当に情けなかったです。

3)1年後はじめて被災地へ

*撮影:日和山公園にて

 

そして1年後、息子の受験が無事終わり、私ははじめて被災地と言われるところへ車で行きました。石巻市でした。

「1年経ってもまだこの状況なのか?」と唖然としました。東北道も三陸道も工事だらけです。沿岸部へ近付くにつれ、被害に遭われた建物が増えてきます。まだ当時の状況のままの建物がほとんどでした。そして車の山。言葉も出ませんでした。

そして、16:50。宿泊先の仙台市へ戻ろうしたとき、どうしても後悔しそうな私がいて、Uターンして役場らしいところへ飛び込みました。いまでも、そこがどこだったのかわかっていません。そして、これまでの1年間、悶々と模索していた思いを職員の方へぶつけました。

 

「私は整理収納お片付けコンサルタントという仕事をしています。仮設住宅で暮らす人たちにお役に立ちたい。狭い仮設住宅の中、足元を1歩でも広くしてあげたい。それが心のゆとりにつながるし、不自由さからも少し抜け出せると思います。何かやらせて下さい!」

いきなり言われた職員の方は驚いた様子でしたが、私の話しを聞いて下さいました。しかし、「それは社会福祉協議会へ行って下さい。今日はもういないので○日に行ってみてください。」

「明日帰るので、簡単には来れないので・・。」

そのとき、またやるせない思いにかられました。「やっぱり何も出来ないのか。」と。

4)友人や地元の方のお力を借りて

友人が私の思いを察して、大阪から東北へ頻繁に行っている方につないでくれて、その大阪の方がまた別の東北応援活動されている兵庫の方につないで下さり、その兵庫の方が南三陸町で住まいも店舗も失い、仮設住宅に住まわれている方につないで下さり、そして、大阪の方が一緒に南三陸町へ行ってくれました。そこから私の思いというか、使命のようなものが始まりました。

5)チームを結成

この経験から私は「一人では出来ない。チームを作ろう」という思いで固まりました。具体的なことは何も決まっていません。どうやって進めていけばいいのかさえわかりません。不安だらけです。しかし、私の呼び掛けに「長柴がやるなら!」と手を上げてくれたメンバーが何人もいてくれました。「何かおもしろそう」「とりあえず入ってみる」という人もいれば、大きな組織になることを期待していた人もいたようでした。

 

そして、2012年10月。ボランティア団体として『東北応援!チーム整理収納アドバイザー』を結成し、5年に渡り、東北へ行き、応援活動をしてきました。チームの活動の様子はこちら

 

東北へ行く度に色んなことに気付かされ、3年間模索した結果、一般社団法人 防災備蓄収納プランナー協会の立ち上げとなりました。

 

防災備蓄の必要性を改めて強く感じはじめながら、これを全国に広めるためにはどうすれば良いのかを考え抜き、結果、協会設立に至りました。私の人生の中で協会設立は考えてもいなかったことです。いまの私がいるのは、全てあの日から始まったのです。

いま、どこで災害が起きるかわからない日本だからこそ、防災備蓄は欠かせないものであり、そのための収納は物理的に必要だと、益々強く感じています。

 

当時を振り返れば、

 

震度5強の埼玉県でも

●帰宅困難になり、寒さをしのぐだけで必死だった

●計画停電で水道まで止まり、飲料水も入浴もトイレも使えず大変だった

●スーパーから食料品もテッシュもオムツもなくなり、生活に不安を感じた

 

震度6強の茨城県では

●電気が5日間止まった

●建物が倒壊した

●物資が手に入らなかった

 

東日本大震災は、東北だけではなく、関東各地でも被害がありました。

これまでに大きな災害があってもなくても、どこであのような大災害が起きるかわかりません。南海トラフ地震は30年以内に必ず来ると言われています。東日本大震災の規模をはるかに超える大災害になります。想像が付きません。

 

だからこそ、あの日を忘れてはいけない。

 

被災経験のない私が言うとお叱りもあるかもしれませんが、被災していないからこそ言えることもあると思います。私はあの日をずっと忘れず『備え』の重大さを伝え続けていきたいと思います。それが、多くの人を救える道だと思うからです。

 

代表 長柴美恵

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